徒 然  

       日々の思いなどを綴っています          

良寛和尚

良寛さんは宝暦8(1758)年に越後国(新潟県)出雲崎の名主橘屋、山本家の長男として生まれました。幼少期は手習いをすることも書物を読むことも激しく拒み、人の注意も気にすることなく、また、朝寝坊して、気ままに過ごす子供だったようです。ところがある日、父親のところにやってきて読書がしたいと言い出してきかないため、しぶしぶ『論語』や『孟子』が入った十三経の巻を与えたところ、淀みなく早口に読み出したのでした。


橘屋の長男として生まれた宿命に従って、いったんは家督を継いで、18歳で名主見習いの職につきます。が、学問で人間の理想を学んだ良寛にとって、現実は厳しいものでした。代官と漁師の間に争いごとが起きたときに調停する立場でしたが、噓や二枚舌を


使って争いごとをまとめるやり方はできず、双方の悪口をそのまま伝え、町は一層混乱に陥ったといいます。結局、名主見習いはわずか1か月でおしまい。家督を継がずに18歳で出家し、隣町の尼瀬にある禅寺「光照寺」に入ったのでした。


良寛さんが20歳のとき、越後を訪れた国仙和尚に自ら弟子入りを志願し、絶対無二の尊敬すべき「本師」に従って、備中(岡山県)玉島にあった曹洞宗の禅寺「円通寺」に入ります。そこで10年余り修行をしたのちに、34歳で吉野・高野山・伊勢など諸国行脚の旅へ。39歳で越後に帰郷。国上山の中腹にある五合庵や乙子


神社の草庵に住みました。74歳で逝去するまで、生涯寺をもたず、粗末な草庵に住み、名利にとらわれない生活を送ります。清貧の中で生けるものへの愛を失わず、子供と戯れ、友と語り、和歌や漢詩を詠み、書に優れた托鉢僧でした。


良寛の辞世の俳句
散る桜残る桜も散る桜
「意味は散る桜がある、そして美しく咲いている桜もいつかは
必ず散るものだ」というもの
また、この俳句は、戦時中の特攻隊でも、隊員たちが用いた
とも伝えられている。